ビートルズ日本公演の日

 ふやけ男のビイトルズ

 コピーライターの岩永善弘さんに、すごい川柳がある。「わずか見むふやけ男のビイトルズ」昭和半ば、戦中派のおやじが新しい音楽についていけなくて、ビートルズをふやけ男と評した。すごいのは世相を映したところだけではない。文字を並べ替えることで、別の意味にする言葉遊びをアナグラムという。この岩永さんの句は、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を並び替えたものである。ビートルズの来日初公演は、今から58年前の1966年の630日だった。チケットをとれなかった若者たちが武道館を取り囲んだ。東京の歴史に残るお祭り騒ぎだろう。その日付は昔から「年のヘソ」とよばれる。1年の半分が終わり、残り半分が始まる日である。ビートルズが耳に馴染んだ世代は60-70歳代はどんな半年にしたいのか?暑い夏がやってくる。(2024/06/25:読売新聞編集欄より)

 ビートルズ来日

1966年の出来事としては、先ず「ビートルズがやって来た!」がダントツのニュースだ。ビートルズは何故この時期にやって来たのだろうか?この年の他のニュースとしては、「羽田、富士山、松山沖に航空機事故続発!」「20万トンクラスも登場した巨大タンカー時代」「中国で文化大革命、紅衛兵旋風吹き荒れる」などが新聞紙上を飾る。日本武道館が興奮のるつぼと化した35分間、629日、ビートルズがやって来た。翌日の630日に東京・九段の日本武道館でザ・ビートルズの第一回日本公演が行われた。約一万人ものファンの悲鳴や絶叫の中で、彼らは急かされるように11曲を歌い、35分だけの公演を終えた。日本滞在の5日間に彼らは日本の若者に何を残したのか。「それは宿命的な出会いであり、大きな事件だった」とは写真家の浅井慎平談は語っている。この大ニュース以来、私はビートルズファンになった。この時期の世界情勢や日本の置かれた立場や当時の様子を見てみる。

 58年前の日本

 1964年は、東京オリンピックが開催された歴史的な年である。経済協力機構(OECD)へ加盟し、海外旅行自由化、東海道新幹線開通など、我が国が敗戦から奇跡の復活を象徴する出来事が相次いだ昭和39年である。その総仕上げともいうべき第18回オリンピック東京大会が1010日から開催され、日本中が熱狂の渦に包まれた。金16個、銀5、銅8の大健闘!東京五輪で日本を支えた秘密は何か?それは、開催5年前から始められた選手強化運動によるところが大きい。この大会のために20億円という予算が組まれ、徹底した科学的トレーニングが実施されたことが一番の成果を上げる要因だろう。海外旅行自由化第一陣が初の観光目的による海外渡航者は16人が、イタリアの飛行機で羽田空港から飛び立った。日本が海外に目を向け始めたスタートの年でもある。人気商品としては、「やめられない、とまらない」使い始められたらクセになる“実用品“としては、ワンカップ大関、かっぱエビセンにクリネックスティッシュなどが生まれた。便利な世の中になったことを痛感した人も多いだろう。高度経済成長を予感させる品々の登場にある。当時山口の田舎では、農村の労働力が都市へ流出し、代わりに農薬や洗剤などこれまでに田舎にないものが流入し始めたころでもある。時を同じくして海外では、レイチェル・カールソンの「沈黙の春」、死の連鎖を引き起こしたのは誰なのか?は後に人類が環境へ配慮する必要性の行動につながった。農薬のかかった草を食べた母牛から生まれた子牛に異常が見られた。当時農薬が生物へ与える影響等考えもしなかった者として、子ども心に痛手を負ったのも事実だ。豊かさの陰で、農村から失われ始めた多くのことがこの時期に始まった。その後60年以上経った今日の田舎の消滅に至っている。

 世界と日本の情勢

話を戻そう。1965年は、「ベトナム戦争に米軍直接介入」、「ジャルパック」大ヒット!”海外旅行時代“に、「遊び心に市民権、深夜番組の「11PM」スタート」が大きな話題となった。ベトナム戦争は、北爆、そしてダナンに3500人以上の米兵が上陸、ついにアメリカがベトナム戦争に直接介入した。米軍による北爆開始は、泥沼化するベトナム戦争介入への起点であるとともに、アメリカの栄光の時代の終わりを告げる狼煙であった。五輪景気の反動で、不況になった日本では、べ平連、反戦青年委が誕生し、60年代後半に本格化する政治の季節が幕を開ける。

ビートルズがやって来た1966年は、羽田沖、富士山上空、松山沖と9か月で連続4件の飛行機事故で犠牲者は371人!“魔の金曜日“の恐怖と呼ばれた。この年、NHKの「おはなはん」が、明るくすがすがしい物語で圧倒的な人気を集めた。「若者たち」「バラが咲いた」「君といつまでも」など新しい歌が次々と生まれ、「あんな連中に武道館を使わせるな」という声もある中で、ビートルズの公演が反響を呼んだ。商品開発としては、「チャルメラ」「ポッキー」「ママレモン」と”商品に個性を”がヒットの秘訣と言われた時代が到来した。高度経済成長を支えた巨大タンカー、世界初の20万トン級「出光丸」が進水した。一方世界の動きとしては、死者40万人、損失5000億元、混乱の10年のあの「文化大革命」が始まった。文化大革命の象徴とも言える造反有理が合言葉の紅衛兵旋風は人身への攻撃にとどまらなかった。古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣の打破を掲げ、全国各地で仏像を焼き捨てるなど、文化財や仏閣などが次々に破壊されていった。国家主席の劉少奇、実権派の鄧小平等が打倒の対象となった。一連の権力闘争の決着は10年後、林彪のクーデターが失敗に終わり、周恩来、毛沢東が世を去り、「四人組」逮捕によってようやく文化大革命の嵐は終わりを告げた。

ビートルズが去った日本

1967年は公害列島ニッポン!“ミニの女王“ツイッギーが来日、女の子の遊びを変えた「リカちゃん人形」誕生、の文字が並ぶ。雨でアサガオの花が白く脱色した。新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息など公害列島ニッポンと呼ばれた。この年に初の革新都知事となった美濃部亮吉は、シンボルカラーに抜けるような青空をイメージさせるブルーを採用し、「東京に青空を取り戻そう」というバッジやポスターが東京を埋め尽くした。これは「清潔な政治」を目指すという意味とともに、環境・公害問題が選挙の一大争点であることを象徴するものだった。逆に言えば、それほどまでに当時の公害問題は、国民の怒りの的だった。今年の都知事選には三期目を目指す小池百合子都知事がグリーンカラーで爽やかさをアピールし蓮舫候補を一歩リードしている。スポーツでは、「日本人には中量級のタイトルは無理」がボクシング界の常識であった。その常識を破ったのがハワイ生まれの日系三世の藤猛だった。たくましいパワーと自信”常識を打ち破った“ハンマーパンチだった。イタリアのジュニアウェルター級チャンピオンのサンドロ・ロポポロを第2ラウインド右フックでダウンを奪い一気にサンドバックのようにメッタ打ちにしてキャンバスに沈めた。今もこの情景は目に焼き付いている。 

この年に世に出回ったものとしては、世界初のロータリーエンジン搭載の自動車「マツダコスモスポーツ」、サントリー「純生」、インクの減り具合が見える「ゼブラボールペン」などである。首都高都心環状線が全線開通、最後の霞が関-芝公園間が接続、昭和34年に浜崎橋-一ノ橋間が開通して以来9年目で総延長約15キロの環が完成した。この年の昭和42年の就職戦線は好調、大卒初任給最高額は赤井電機の43000円が最高記録。はやり歌は、「ブルーシャトー」「帰って来たヨッパライ」。今日630日は、夏越の大祓。明日からは雨に、暑気に、油断ならない7月が始まる。残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願う。(2024/06/30