懐かしいおやつ(2023年9月26日)

 

【祖母の麦芽飴】

私の子どもの頃の山口の実家では、近所にお店など有りませんので、お菓子はすぐには買えませんでした。しかし、その頃の忘れられないおやつがありました。それは、麦の飴です。祖母はとても賢い人で、お裁縫から農作業まで何でもこなせる人でした。子供の頃、祖母が作ってくれた美味しい飴の思い出はたくさんあります。麦の飴を作る方法は正確に覚えていませんが、暗い場所で麦モヤシを作り、それを大釜で何時間も煮詰めます。すると、麦が飴色に変わり、しばらく弱火で煮詰めるとトロトロの飴状になります。そのトロトロになったものを、餅つきに使用する餅オケに流し込みます。切り目を浅く付けて冷えて固まると出来上がりです。切り目に沿って包丁の裏で軽く叩くと割れます。不揃いな形になりますが、食べやすい大きさにします。甘いものが少なかった子ども時代に私たちにとっては最高のおやつでした。年に1回、作ってもらい、長期間楽しんでいました。 

 

祖父の蜂蜜】

昭和30年代、山口の実家の祖父は日本ミツバチを飼っていました。祖父が使用していた巣箱は、30㎝くらいの正方形で、高さ10センチくらいの箱を5段から7段程度重ねていました。それぞれの箱には竹製の串が井桁状に固定され、巣を作れるようになっています。巣は何層も縦状に作られ、取り出すと蜂蜜がぎっしり詰まっていました。蜂蜜が適度に溜まってきた時期に、その蜜の大部分を取り外します。取り外した蜂蜜を麻袋に入れ、高いところから吊るして、下に「はんどう」と称する大きな焼き物の鉢に密が滴り落ちます。その「はんどう」の中に指をつけ、そっと蜂密をなめるのが楽しみでした。昭和40年代に入ると、日本ミツバチはいなくなり、絶えてしまいました。その後西洋ミツバチも飼っていましたが、しばらくするとそれも絶えてしまいました。今考えると、その頃から稲作に農薬散布が始まったように思います。重労働の田んぼの除草作業はしなくて済むようになったのですが、大事な自然も少しずつ消えていきました。(写真はhttps://syumatsu-yoho.com/post/taking-honeyより引用)


 

【大寒の時季に家族総出でこおり餅】

昭和30年代から40年代にかけて、山口の実家の土間には、馬の格好をした足踏み式の餅つき機の「だいがら」(台唐)がありました。「だいがら」は、昔は米つきにも使用されていて、精米機代わりだったようです。杵を手で持ち上げるより足で踏み込む方が楽です。正月前の餅つきに加えて、1年で最も寒い大寒の時季に家族総出で寒餅つきをします。その量は半端なく多くて20臼(約1俵)ぐらいを1日かけてつきます。もち米を蒸すときにクロマメ、ゴマ、アオサノリ、茶色の砂糖(俗称チュウジロザトウ)などを加えて4種類の異なる風味を付けます。さらに赤に黄色に青色の色紅で豊かな色彩にしていました。ついた餅は、長方形の餅箱に入れ厚さ5センチ程度に伸ばして、ゆっくり冷まします。少し硬くなり始めたころに幅3センチ程度のカマボコ状に切り分けます。そのカマボコを包丁で2ミリほどの厚さに薄く切っていきます。これを納屋に特設した「餅乾し棚」で23週間寝かせて凍らせます。これが「こおり餅」です。一年で最も寒い時期に餅つきは暖かく、癒される行事の一つでした。「こおり餅」は乾燥しきっていますので長期間保存できます。学校から戻ると、その「こおり餅」を祖母が焼いてくれていました。香ばしいにおいとともに、美味しいおやつとして懐かしい味です。


 

【つるし柿】 

  山口の実家には西条柿の大きな木が古屋敷にありました。深まる秋に色づく柿の実、この時期になると西条柿の柿もぎと柿の皮むきが年中行事の一つでした。西条柿は熟す前に少し色づくころに長い竹竿の先を両側から切り込みを入れV字を作りもぎたい柿の柄に突き刺して1回転させると落とすことなく無傷で取れます。こうして収穫した西条柿の皮むきは結構時間がかかります。大量の皮は干して細かく刻み、白菜漬けや朝鮮漬けなどにも入れていました。1連に20個程度を差し込み軒下に吊るして冬近くまで乾燥させます。水分が抜けきる少し前の吊るし柿の味は絶妙です。水分が抜けきった後は、吊るし柿の表面に白い粉が浮いてきます。この白い粉は乾燥させたことで糖分が染み出たもので「柿霜」と呼ばれ、とても甘みがあります。寒い時期のおやつとしてよくいただいていました。このつるし柿1個と梅干し1個を湯のみに入れ、新年の最初のお福茶として家族でいただいていました。(写真は2023年秋の自宅軒下のつるし柿