孫と鎌倉大仏~江の島詣2023.2.6

 立春間もない26日、鎌倉大仏殿と江の島巡りに孫の蛍太を連れて出かけた。鎌倉大仏は、源頼朝の意思を受け継いだ侍女稲田の局が発起し、庶民から一人一文の浄財を集める勧進により建立された木製のものだった。北条得宗家の正史「吾妻鏡」によれば1238323日、深沢の里で大仏建立の工事が始まり、1243616日、良信を導師として大仏と大仏殿の落慶供養が行われている。しかし1247年、木製の大仏は台風で破壊された。その後、造られたのが現在の青銅製の大仏とのこと。1252817日、青銅製の大仏の鋳造が開始されるが、その後の記録がないので、いつ完成したかは不明。ただ、日蓮上人が12681011日付けで「大仏殿別当あての書状」を書いていることから、それ以前には大仏の鋳造が終了し、大仏殿もこの頃には完成していたことになる。大仏殿は、度重なる災害等で倒壊するが、その都度再建されてきたという。しかし、1495815日に発生した「明応の大地震」によって大仏殿が崩壊し、鎌倉大仏は露座となったと伝えられている。(鎌倉大日記の記述)大仏再建勧進状は、1879年、高徳院の住職が大仏殿再興を発願して発行したとのこと。昭和33年に国宝に指定されている。

30数年前になるが、長女が鎌倉へ踊りと三味線のお稽古に通っていたころ毎週鎌倉を訪れていた。お稽古中の時間に近くのお寺巡りをしていたことを思い出す。雪の下周辺から長谷の大仏殿までは少し距離があり、長谷の方までは行っていないが、来客の度に鎌倉大仏を案内していた。 

生前の品行によっては、死後の世は極楽と地獄のどちらかに行くらしい。こんな絵本がうちにもあるが、大仏殿脇のおみやげ物コーナーで目にした。孫の蛍太と悪いことばかりしていると地獄へ行く、良いことをすると天国へ行ける話をしながら、大仏殿と高徳院境内を散策した。

次は、江の島詣だ。なだらかな細い参道の両脇にお土産物屋が並ぶ、参道前の左側に天ぷら屋がある。以前よりたまに珍客を案内する食堂で、ここの天丼が変わっている。なんとイセエビの天丼だ。それも天ぷらに揚げるのではなく、煮たイセエビを半分に背割りした丸ごとイセエビなのだ。まだやっていることを確認できた。井上饅頭店の白い湯気も賑わいを象徴している。 孫の蛍太は参道傍らのガチャを目にし、欲しそうに参道を歩いていた。あとで買わされた。

 名物エスカーで急な坂道を回避し、灯台のある広場へ到着。ここから、島の西側にある岩屋まで行くことになった。あとで大変な目に合うとは思わず西側の浜まで階段を下りた。何回も江の島には来ているが西側まで下りたことは初めてあり、興味はあった。岩屋は岸壁にできた洞窟である。波により浸食されてできた江の島岩屋は、古くから信仰の対象になった。弘法大師が訪れた際には弁財天が現れたと伝えられる。また源頼朝がここで戦勝祈願をしたとも言われる。洞窟内を元気に駆け回る蛍太も江の島の龍神信仰の龍の姿に少し恐れながら蝋燭の明かりで探索を楽しんでいた。

歌川広重の作、六十余州名所図会「相模江之嶋岩屋ノ口」は荒々しい波の断崖絶壁と相模湾越しの穏やかな富士山が印象的である。長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、江の島の洞窟として観光客が絶えない。あいにく富士山の遠望はできなかったが、冬の江の島の波ときれいな相模湾の海の色を感じるとともに、足腰痛みを感じながら孫との小旅行を楽しんだ。